君は飛火野耀(とびひのあきら)を知っているか 第2回『イース 失われた王国』

数年ぶりの再読にてその素晴らしさに気づかされた、小説『イース 失われた王国 (飛火野耀・著 )』。

実際、何がどう素晴らしかったのか、具体的に3つのポイントでご紹介していきたいと思います。

1:ファンタジー小説らしからぬ『生粋の青春小説』

ファンタジー小説といえば異世界での剣と魔法と龍と姫。

それらが勇猛果敢に繰り広げられる幻想世界が定番。

ところがこの小説ではそんなお約束事は一切おかまいなく、絶妙な「現実感」をぐいぐいと突き付けてきます。

というのもこの小説の世界設定は、文中の言葉を借りれば「魔法と冒険の時代はそろそろ終わろうとしていて、理性と文明の時代がはじまろうとしている」という、極めて現実に近い世界観。

そして本作の主人公アドルはそうした世界に生まれ育ちながらも「きっとどこかに自分のために用意されている冒険の場所があるはずだと信じて」旅を続ける若者。

即ち実に、“ 青臭い青年像”となっているのです。

そして世の創作のあらゆる“ 青臭い青年”の例にもれず、青年・アドルは夢と現実のギャップにことごとく失望し、挫折し、くじけてはまたその身をふるい起こす、を繰り返すのです。

子供の頃はこの感覚の何が言いたいのか全く読み取れず、ただただダサい物語としか感じられませんでした。

ところが大人(おっさん)になって再読してみると、この若者ならではの辛酸や孤独、夢がことごとく崩れ落ちてゆく虚しさなどが、文面からあふれだして心をくすぐり、いつのまにか青年アドルの行く末を追わずにはいられなくなってしまうのです。

つまりこの小説、なりはあくまでもゲームのノベライズではあるのですが、その実、極めて真っ当な青春小説といった方が正解。

一人の無力な若者が、思春期から大人へと成長する中で様々な葛藤を乗り越える過程が実によく描かれています。

しかもそれが冒険ファンタジーの世界に絶妙に調和しており、他に探しても見つからないような確かな文学作品として成立しているのです。

2:真に迫る『魔との殺し合い』

この物語はエステリアという国にはびこる「魔」を封じ込めるため、その地のどこかで魔物に守られている6冊の「イースの書」を集めるという大筋。

なので物語上に発生する戦闘イベントは全てこれらの魔物との交戦となります。

ですが、本作の主人公アドルは上述の通り“青臭い青年”ですので、これらの戦闘も真に迫る生々しさがあります。

剣の達人でも勇者でもなんでもなく、どちらかというと普通の人間が対峙する魔物との交戦は常に死と隣り合わせ

とくに物語後半の魔物たちにいたってはアドルの深層心理に平然と入り込んで内側から殺しにかかってくる為、剣の腕など一切関係のない、理性をふり絞っての攻防が繰り広げられます。

自分の親愛の人に扮した魔物に対して剣を突き立てる葛藤や、幻惑に陥れて忠誠を誓わせようとする魔の恐怖…、それらが青年アドルのウェットな心情描写とともに描かれる様は、読み手の心に深々とくいこんでくるかのよう。

そして本作で『敵』と言えば語らずにはいられないのが、オリジナルのファンを驚愕させたラスボス「ダルク・ファクト」。

元の設定を一切かなぐり捨て、若者にとっての真の敵とはこういうものだ!というコンセプトをそのまま具現化したようなフォルムは、後々まで語り草となっています。

こうした一連のアクションはなかなか他で体験できるものではなく、本作が通常の冒険ファンタジー小説の枠を大きく乗り超えた何かであることを感じさせるのです。

3:ゲームノベライズらしからぬ『卓越した文章』

そもそも上記2点とも確かな文章力がもたらせる産物なので、これは言うまでもないことかもしれません。

ですがそれでもやっぱり『イース 失われた王国』を語るには、この見事な文章を抜きにはできないでしょう。

文章の良し悪しについては好みも分かれることなのでここでは多くを語りませんが、ただ一つ例えを上げるとすれば、それは「あるものをあるまま紙の上に映し出す力」と言えるでしょう。

飾らず、気取らず、そこにある事物や、そこにいる人の魂を、誰にでも分かる言葉で紙に描きうつし、誰が読んでも同じ像が頭の中に結び付く力。

そうした力の備わった文章は真に美しく、ときに名文として歴史に刻まれ、国語の教科書などにもお手本として掲載されてゆきます。

さて、この「イース 失われた王国」については、全編、読めば読むほどにほれぼれするような文章の連続。

彼女はアドルが目を開けたのをみて、にっこり笑った。花が開くような柔らかい笑顔だった。彼が起き上がろうとすると、彼女はそれをそっと両手で制して、唇に一本指をあてて静かに待っているように身振りで示し、部屋から出ていった。これら一連の動作はまるで夢の中のできごとのように全く音を立てずに行われたが、その間も窓の外からは小鳥の声が聞こえていた。

こうした文章は本作のどこにでも見られ、一冊丸ごと、まるで精巧な工芸品であるかのよう。

実際、本作を評価する声にはこの優れた文章力を称えるものも多く、中には「村上春樹が冒険ファンタジー小説を描いたらこのようになるだろう」といった声もあるぐらい。

なにより驚くのは、これが今でいうところのライトノベル、ゲームノベライズというカテゴライズの中でなされていることなのです。

やはり飛火野耀氏、いったい何者…

いやしかしプロフィールをみてもやっぱり何一つ分からないのですが…。

まとめ

ということで『イース 失われた王国』について紹介をしてきましたが、実際にこの小説が世間で高い評価を得ているかというと、全くそうとはいい難い厳しい現実があるようです。

というのも、私もそうでしたが、子供の時にゲームの世界に憧れて手に取り、そのあまりのギャップに戸惑われ、一種の「亜種本」のような扱いのまま片付けられてしまっているようなのです。

しかしこの小説の文学的な品格は紛れもなく傑出しており、 このまま「亜種本」として埋もれてしまうにはあまりにも惜しい作品です。

かつてこの小説を手に取り、そして衝撃を受けた方はもちろん、昨今の若いラノベ読者の皆様にもぜひ手に取っていただき、その『価値』を再評価していただきたい一冊です。

本書は既に絶版していますが当時かなり出回ったようですので、古本として比較的容易に入手可能です。

本作が、ラノベ創成期の比類なき青春ファンタジー文学として、いつまでも読み継がれていくことを切に願います。

◇イース 失われた王国
◇飛火野耀
◇1987年
◇角川文庫
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さて、「君は飛火野耀を知っているか」。続く第3回は氏の最高傑作として名高い「もうひとつの夏へ」に迫ります。乞うご期待。

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