津田梅子とヘレンケラーとナイチンゲール
新しい五千円札の肖像画が津田梅子さんになることが決まりました。
津田梅子さんといえば女性教育の先駆者として知られていますが、ただその人物像などについては広く万人に知られていると言うわけではないような気がします。
やはり今後末永く私たちの日常の目に留まることになる人物。それがいったいどのような人であったのか、少しでも情報が欲しいところ。
そこで調べてみると、津田梅子さんについては「誰でも分かる」強力なエピソードが存在していることが分かりました。
津田梅子さんは、へレン・ケラーさん、ナイチンゲールさんという二人の大偉人と対談をしたことがある、(おそらく日本人として唯一と言ってもいい程の)激レア体験の持ち主であったらしいのです。
ヘレン・ケラーさん、ナイチンゲールさんといえば知らない人がいないのではないかというほどの歴史的大人物。
その人生や言葉、偉業の数々があらゆるメディアによって語りつがれている、グレイテストヒューマン、偉人中の大偉人です。
ヘレン・ケラーさんは生涯で何度か来日しているので面識のある日本人の方はそう珍しくないようですが、しかしナイチンゲールさんに至ってはクリミア戦争(1853年~1855年)で活躍した方ですので、日本人で親交を持っていること自体が非常に稀だとされております。
そして津田梅子さんはなんとこの二人にほぼ同時期に、しかもそれぞれの母国に渡って会見をしているのです。
とはいえ、ヘレン・ケラーさんとナイチンゲールさんは活躍していた時代が全く違っていますので、この両者に同時期に会見って、物理的に不可能なのでは…、と思われるかもしれません。
実際、ヘレン・ケラーさんが盲聾者でありながら名門ラドクリフカレッジ(現・ハーバード大)を卒業したのが1904年。
かたやナイチンゲールさんが「白衣の天使」として従軍したクリミア戦争は1850年代のことですので、それより半世紀以上もさかのぼります。
ただお二人の存命期間を見ると、
と、時期的に重なっておりますので両者に同時期に会う事が不可能なわけでは有りません。
実際に彼女が両者に面会をした経緯は下記のようであったとされています。
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明治初期の日本は封建社会が色濃く残り【女三界に家無し】(女は幼少のときは親に、嫁に行ってからは夫に、老いては子供に従うものだから、広い世界のどこにも身を落ち着ける場所がない。)と言われた時代でした。
ところが津田梅子さんは幼少期から思春期を米国で過ごし、大変グローバルな感覚を持ちあわせた才女。こうした状況に疑問をぬぐい切れず、教育の場を軸に女性の意識改革についての活動を積極的に行っておりました。
そんな折、転機がおとずれます。
それは津田梅子さんが35歳の時(1898年)、アメリカ、コロラド州で開かれた万国婦人連合大会デンバー会議に、 “日本の女性代表” として出席することになったのです。
その会場で津田梅子さんは和服姿で颯爽と登壇し、3000人の聴衆を前に、日本の女性問題について英語で堂々とスピーチを行ったのでした。
この講演が大喝采を受け、梅子は一躍時の人となったそうです。
講演の様子は当時は大きな話題になったようで、当時17歳の女学生であったヘレン・ケラーさんと会談をする機会を得ることになったそうです。(ヘレン・ケラーさんは聾唖の才女として、既に全米でも注目される存在となっていました。)
更にその後イギリスに招かれ、かねてより切望していたナイチンゲールさんとの面会を果たすことになったようです。
ナイチンゲールさんはこの時齢80歳、病床での面会であったとされています。
この時の面会は津田梅子さんにとって強い感銘を受けたようで、日記にも衝撃の強さをうかがい知る記述が残されているとのことです。
津田梅子さんは帰国後、直ちに女性のための高等教育の場として女子英語塾(現・津田塾大学)を設立。女性教育の礎を築き、その地位の向上への道を大きく切り拓いてゆくことになるのでした。
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「類は友を呼ぶ」という言葉があります。
偉大な人は相応に偉大な人物と惹かれ合い、引き寄せ合うのかもしれません。
今回ご紹介した一件をもってして、津田梅子さんがどれほど優れた人であったのかをうかがい知ることができるのではないでしょうか。
津田梅子さんは今後紙幣に描かれることで、国際的にもその肖像が広く周知されてゆくことになります。
そうした中、彼女を知る手がかりの一つに今回のエピソードがお役に立つことができればと思います。
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