君は飛火野耀(とびひの あきら)を知っているか -あとがき-

 ここ数か月をかけて飛火野耀氏の全作品レビューをアップしました。

 それは氏の作品に触れるだけでなく、関連する海外の翻訳小説やゲーム等も、その作品理解を深めるために必要と考え手を伸ばし、そして氏の創作世界にたっぷりと耽溺しました。

 そしてその世界観に触れれば触れるほど、氏が『小説』というジャンルそのものに対して深い愛情を注ぎこんでいたのを感じることが出来ました。

 飛火野耀氏は『小説』に対して限りなく純粋であり、真摯な方であったように感じられます。

 それは氏の作品どれもに共通する「妥協のなさ」に現れています。

 小説のアイデアが海のようであるならば、氏はその源を極めて深淵に求め、小説のアイデアが山のようであるならば、氏はその原石を地中の奥深くに圧縮された結晶に求め、そうして汲み上げられ、あるいは採掘された高純度の素材を磨き、精錬し、細工をし、見事に作品として仕上げ、世に送り出していました。

 それはどれほどの技量であったことでしょう。

 氏はそれを、まだその呼称すら無かった『ライトノベル』というジャンルのはるか黎明期に、自ら先陣を切って成し遂げてきたのです。

 が、しかしその功績とはうらはらに、氏の存在は一部の愛好家の間でのみ時折話題になる程度であり、一般的に広く知られているとは言えません。

 これをどう解釈するべきなのでしょうか。

 優れた創作やその担い手が、必ずしもその真価に値する評価を得られているというわけではありません。それは古今東西あまりにも例の多いことでしょう。

 特に今や、ネット環境に接続さえすれば、いつでもどこでも誰でも自在に創作を世に放つことができる時代です。その創作の生成量の膨大さの中では、一個の小説、一人の作家は、それこそ浜辺を構成する砂粒の一粒のようにも感じられます。

 であるとすれば、たとえその一粒がいかに煌めかしい黄金であったとしても、それを見定めるふるいに留まる可能性は、いったいどれほどの奇跡であることでしょうか。

 そして、そのふるいのひとかきにも巡り合わず、波にのまれてしまう物語がいったいどれほど埋もれていることか。

 ふるいに残るもの、残らぬもの、ふるいにかかるもの、かからぬもの、この違いはいったいどこにあるのでしょうか。

 それはもしかすると永久に解の得られぬ命題であるのかもしれません。

 でもそうした命題に対して、少しでも氏の作品をWebの片隅に伝え残してゆくことができれば、ふるいを操るむすうのかき手に何らかの影響を及ぼさぬものかと考え、氏の全作品レビューを記してきたのです。

(ちなみに、これらのレビューはいずれもかなり大胆な切り口となっており、愛好家の皆様からすれば腑に落ちない点も多いかもしれません。しかしながら、例えば「もう一つの夏へ」のレビューなどをまともに取り扱おうとすればそれこそ稿をいくら費やしても収まらないことになってしまい、それはブログという性質上あまりにも不向きであるため、どうがご容赦下さい。)

 改めて申し上げますが、氏の作品はいずれも極上の逸品、まぎれもなく後世に語り継ぐべき名作ばかりです。

 これほどの小説を世に残した飛火野耀氏。しかしその素性は以前として明らかにされておりません。

 これほど情報網が発達した世の中でありながら、一人の小説家の正体が全く分からないままというのもどこか不思議なようでもあります。

 もちろんその足跡、というかほんの切れ端のようなものはネット上の情報で俄かに知ることもできますが、それにしても飛火野耀氏がそのパーソナリティ以外にどのような名で、どのような作品を発表つづけていたのかは未だに茫洋としたままなのです。

わずかに知ることが出来る氏の足跡

 これが実に謎で、これほどの技量と小説に対する底深い愛情を注いでいる人物であるならば、おそらく氏にとって小説を書かずに存在していられるということは考えられないのですが、しかしその素性を探ろうにもまるで手掛かりが得らないのです。(もっとも素人作業ではいくつかのネット上で引っかかる情報を頼るのが関の山ではあるのですが…。)

 一時は氏の正体を知りたく、その作品を文面から推察することができればと、当時のSF小説を古本屋で片っ端から斜め読みを試みたりもしたのですが、何分その種の予備知識もないこともあり、全く見当がつかずに途中であきらめざるを得ませんでした。

 ただその断念と同時に、ふと、こんな考えが頭をよぎりました。

 飛火野輝氏は“覆面作家”です。

 その背景にどういった事情が潜んでいるのかは分かりませんが、氏は自ら望んで“覆面作家”であろうとしたのです。

 であるとするならば、その“覆面”をはぎ取り、正体を知ろうとするということが、いったいどのような意味を持つことになるのだろうか、と。

 だから、我々が知りうる限りの飛火野耀という人物は、あくまでもプロフィールに書かれていることが飛火野耀氏の全てであり、それ以外の誰でもないといった解釈でよいのではなかろうか、と。

 小説家・飛火野耀。

 1978年のクリスマス・イヴにこの地上に突然出現し、1988年より「イース 失われた王国」をはじめとし、主に青少年向けの文庫レーベルにおいて数々の優れた作品を残した後、1996年「神様が降りてくる夏」の発表を最後に、忽然と姿を消した幻の小説家。

 氏が今どこで何をしているのかは全く謎に包まれたままとなっている。

 東京近郊の某市で一人静かに隠遁の日々を送っているのかもしれませんし、あるいは意識体となって、時空のどこかをさまよっているのかもしれない。

 だけどいつの日か、氏が再び新作をひっさげて私たちの前に姿を現す日が来ることを、ずっと待っている。

『君は飛火野耀(とびひの あきら)を知っているか』 終わり。

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コメント2件

  • yanryu8787 より:

    けんこや様

    コラムを一気読みしてしまいました。
    飛火野先生愛に満ちた秀逸なコラムをありがとうございます。

    自分語り失礼します。
    自分は、やはり「イース」だからと先生の本を手に取りました。
    しかし自分はゲームを今の今までプレイしたことはなく、古代祐三氏 の音楽に魅了され、ムック本やマンガ等の関連書籍を買い漁っていた際に出会った本の一つでした。

    けんこや様の仰られる通り、それが幸いしたのだと思います。即ち、思い入れなく先生の作品に触れ、一発で飛火野先生の世界観にハマってしまいました。

    イース、2、UFO(勝手に略してすみません) を立て続けに買い、飛火野ワールドにどっぷり浸かっていました。

    けんこや様のコラムを拝読し、その頃の感覚が甦った思いです。結婚して独立しましたが、その3冊は実家から持ってきています。

    もう一度、読んでみようと思います。
    本当に良いコラムをありがとうございました。

    • けんこや より:

      ありがとうございます!
      飛火野耀氏の小説はどれも格調の高さを彷彿させるものばかりなのですが、今や知る人ぞ知る幻の小説家になってしまいました。
      月日とともにその名が埋没されてゆくのがあまりにも悔しくて悔しくて、ならば自分が少しでもその名を伝え残すんだ!という意気込みで綴ってまいりました。
      想いをお伝えでき、共感をいただけたようでなによりです。

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