エグゼドエグゼスの憂鬱2(全3回)

周囲の友人達の中でもファミコンの導入が遅かった私は、既に友人宅で数多くのゲームに触れ親しんできました。

なので、少しプレイをすればそのゲームの品質はおおよそ見極めることができる眼力も備えておりました。

エグゼドエグゼスを開始して、私はすぐに気が付きました。

「やってしまった…。」と。

それはまず、ゲーム開始直後から画面に広がる背景のセンスに現れていました。

ゲームの基本スタイルは縦スクロールのシューティングゲームですが、その背景グラフィックが実に単調。

褐色の荒野に、ところどころ白っぽい幾何学模様のデザインが延々と続くだけ。

同じ縦スクロールのシューティングゲームでも、既にゼビウスやスターフォースのような優れた作品が発売されていた時代、またはスーパーマリオのようなポップなグラフィックのゲームも登場していた時代に、あまりにも残念なレベル。

ただそれでも、ゲーム性が優れていてスピード感やテンポがあれば、または敵を撃墜する爽快感があればいいものですが、残念ながら自機の動きは鈍く、メリハリもありません。

そして残念ながらシューティングゲームに不可欠な「敵を打ち落とす爽快感」はほぼ皆無!

というのもこのゲーム、シューティングゲームとしては珍しく、自機の射程距離が極めて短く設定されているのです。

撃っても撃っても敵に届かない。

撃ち落とすためには敵にかなり接近しなければならず、結果被弾し、アウト。

なので、撃たれずに相手を打ち落としてゆくためにはある程度高いテクニックが要求されるのですが、その難易度を救済するためなのか、その場で何度でもコンティニューができるシステムになっています。

ところがこれが完全に仇。

やられてもすぐに継続できるので、この種のゲームにあってしかるべき「緊張感」をことごとく逸してしまっているのです。

そもそも継続したところで変わり映えのない荒野が延々続くだけなので、先に進むメリットもたいして感じられません。

もはや、いったいどこに面白さを見いだして良いのかも分かない状態。

さらに、さらに、なによりもびっくりしたのは敵や弾が画面に増えてくると、それぞれが点滅しはじめ、動きがとたんにぎこちなくなるのでした。

とても正常にゲームが続行できるレベルではありません。

壊れているとしか思えませんでした。

ところが説明書にはしっかりと「画面が見にくくなることがあります」などと書かれてあり、これが正常な仕様であることが明記されているのでした。

信じられないようなショックでした。

当時、「クソゲー」という言葉は存在していませんでした。

世の中に流通するゲームはそれなりに娯楽商品としての基準をクリアしたものが当たり前だったのです。

そうした中で、ハードウェアのスペックを無視したノイズまみれのゲームなど、みたことも聞いたこともありませんでした。

やってしまった・・・。

あれほど夢に見た「我が家でファミコンが遊べる」という一大イベントが、こんなに残酷な形になるなんて思ってもいませんでした。

親の目も気になりました。

自分の為にゲームを買ってくれた親を悲しませたくなくて、無理にエグゼドエグゼスを楽しんでいる姿を見せたりもしました。

そしてこのゲームの製作者を呪いました。

ゲームをプロモーションしている本屋を呪いました。

なによりそんな大人たちにまんまと翻弄されてしまった自分を呪ったのでした。

ところがです。

そんな日が数日つづいたある日、不思議な奇跡が起こりました。

どういうわけだかこのエグゼドエグゼスが、友人たちの間で大人気を博したのです。

エグゼドエグゼスの憂鬱(3)に続く。

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